「推し」
この言葉が当たり前に使われているこの時代で、多くの人が推しで幸せになっている中、一方で悩んだり、落ち込んだりいる人がいるというのも事実だと思う。
私は今、幸いなことに、推し活を楽しくできている方だと思ってる。それは「今の自分」にフィットする推しに出会えたことが、かなり大きい。ただ、一方で「推しで悩んでいる人」だった時期も過去にまあまあある。最近、「その状態の違いがなんだったのか」、「自分の中で何を変えたか」が整理ができてきた気がするので、備忘録として残していこうと思い、このブログを書き始めました。
これは決して、誰かを推してる全員に当てはまるとかそういう話ではなくて、「私の中での推し方への変化」を綴ったものです。
前提
「推し」という言葉の多様さから、私の推しがどんな人たちなのか、どんな次元の人なのか、一応前提から始めてみる。私の推しは常に「3次元のアイドル」です。
過去の推し:
V6(自担三宅)、宮澤佐江ちゃん(元AKB48)
現在の推し:
Travis Japan(自担宮近)
今回、元推しについてネガティブ面で語る部分が多いですが、大前提は「私の心の中の問題」と思っていただけると嬉しいです。過去の推しには沢山助けてもらって感謝の方が圧倒的に上回っているので。
私が「何故推せなくなるか」
もう本題行きます。これまで私は「担降り」「推し卒」をそれぞれ経験してきて、「もう無理、推せない」と思った時の心境に、共通化できそうな部分を見つけました。ここを紐解けば、随分気持ちを楽に推せるのではと思ったきっかけとなる自らを苦しめた行動たちです。
1. 「自分の理想のアイドル像」に推しを押し込めようとする
何故「推し」ができるのか。それは「●●さんの□□なところが魅力的だと思った、好きだと思った」から始まることが多いのかなと思う。私の場合、□□(好きになったポイント)に当てはまる優先順位として「人間性」が先にきて、「ダンス」が次点にくる。昔も今も。
「人間性」の定義は、昔の私(前の推しを推していた時の私はこれで定義します)の場合、明るい、頑張り屋、周りの人への配慮ができる、少しやんちゃ気質、でも根は真面目。こんな感じの人に惹かれる傾向があって、元推したちは「まさにこれだ」と当時の私は思っていました。ここに加えてダンスが上手いこと、ダンスを踊る人、あわよくばダンスが好きな人が次点だけど、でも同じくらい重要な要件だった。
つまり、「この人は私の理想像に合致している人」と思って応援し始めて、応援し続けていた、ということ。それに加えて、その「理想像」に継続的に推しを当てはめようと私は勝手に努力し続けてしまった。これが一番自分を苦しめた行為だと自覚してる。
例えば、応援していく中で雑誌を読んだり、出演しているテレビを見たり、推しの考え方や価値観に関する最新情報はどんどん追加されていく。その情報の中で、当然、「自分の理想像と少し離れた発言や行動」にぶち当たることがある。昔の私は「自分の理想像」からズレ(乖離)があった場合に、そこから逃げてしまう傾向があった。つまり、そんな推しを受け入れることが出来なかった。だって、その理想像が崩れてしまったら何もかも終わってしまうかも、と思ったから。私は長年、受け入れたくない事実から目を背け、居心地のいい情報だけを受け入れるようになっていたんだと思う。
2. 過去の発言を心の拠り所にする
そんな感じで受け止められない「今の推し」との帳尻を合わせるために、時空を歪ませる事も多々あったと自覚している。例えば、10年以上前の発言を元に「この人はこんな考え方をする素敵な人なんだ」と、現在の推しに投影し続けてしまったり。何か受け入れられないことが起きると、過去の発言から安心感を得ようとしたり。でも、結局推してるのは「今の推し」だから、理想とのズレが消えることはなかったんですよね。
3. ズレの頻度の問題
「今の推し」との価値観のズレ(乖離)の頻度が増えると、当然「逃げている自分」と向き合わないといけなくなる場面が増える。その度に、逃げ続けている自分を受け入れられず、しんどくなった。「なんで私はありのままの推しを受け入れてあげられないんだろう」って。結局、逃げている自覚はずっとあったので、「また逃げてしまった、受け入れられなかった」という罪悪感みたいなものも生まれてきてしまう。そりゃ楽しく応援なんてできなくなっちゃうよね...。
4. 無理やりにでも推しを全肯定する
昔の私はなぜか「推しの全てを肯定する=正義」みたいなスタンスだった。なんでこうなったのか、未だに原因はよくわからない(笑)今思えば、この全肯定スタンスが「推しの嫌な部分から目を背け続ける」行為の原因だったのかもしれない...。
このスタンスが何を産んだか、私にとっては「罪悪感、圧迫感」でしかなかった。何か受け入れがたい出来事が起きたときに「推しの全てを肯定出来ない自分」を責めたくなって、自由に推せない窮屈さを自分に強制してしまった。なぜか全肯定出来なくなったら終わりだと思ってしまって、マジでこれが理由で推し卒しました。誰も全て受け入れろなんて言っていないんだけれども、それが正義だと思ってしまってた。そりゃ苦しくなるわって感じ…。
受け入れられない部分から目を背けて応援することは悪ではないとは思う。でも、最終的に、私にはこのやり方の限界を感じてしまった。だから、Travis Japanに出会って、新たに推し活をするに当たって「このままではダメだ」「ずっとトラジャ担でいたいから、そのためにはどうしたらいいか」を考えて、今実践しているところです。今も完璧には出来てなくて、意識的にやっているので、私の言動と不一致な部分があれば申し訳ありません。
それでは、私が何を変えたのか、細かく話していきます。
今、意識していること
これまでお話してきた反省点を活かし、今の私が意識していることをまとめます。ただ、この推し方は私独自のものであって、誰にとっても正解だとは思っていません。あくまで私の中の変化の描写です。
1. 推しを決めつけない、変化の余地を残す
まず、「この人はこういう人です」と決めつけないようになりました。例えば、「この人は負けず嫌いの努力家です」とか、具体的な言葉で限定しないようにして、「今の推しのモード」を受け入れていくスタンスになりました。
これは何かというと、推しが「僕は(私は)負けず嫌いなんです」とある時点で発言した時に、「この人は負けず嫌いな人だ」と認識するのではなくて、「今、この人は負けず嫌いモードなんだな」と解釈する、みたいなことです。なぜそうしたかというと、変化を受け入れるためです。「負けず嫌いな人だ」と認識してしまい、そこを好きになった場合、「負けず嫌いな人」という強い思い込みと「これからも負けず嫌いでいて欲しい」という願望が混ざり合い、ある種の私の中での推しの定義になってしまうのかなと思います。それが数年経って、明らかに負けず嫌いでない発言が飛び出すと一気に受け入れられなくなる、という流れになりそうだと感じました。
一方で「負けず嫌いモード」と解釈する場合ですが、イメージ的には、「変化する余地」を残しておくといった感じでしょうか。例の「負けず嫌い」にフォーカスするならば、人は若い時は競争の渦中いるときは負けず嫌いになりやすいし、一方で、歳を取るにつれて「自分は自分だ」という考えに変わるかもしれないのです。あくまで「負けず嫌い」なのは発言した時点の推しであって、永続的に「負けず嫌い」である保証はない、と認識しておく、みたいな感じです。
そして、その都度、そういう推しを好きと思えるか、思えないかを判断していくという感じ。推しから「自分は負けず嫌いなんです」という発言が出た時点で、「私は負けず嫌いな推しが好き」な場合は、それで何も問題ない。逆に「私は負けず嫌いな推しは苦手」な場合は、「今は負けず嫌いモードなんだね、そこは好きじゃないけど、変わるかも知れないし。」とそこら辺に置いておく感じ。
モードを受け入れて、それが好きなら好き、無理なら無理でいい。これするようになったら、小さな違和感とかで落ち込まなくなりました。でも、例えば私が「負けず嫌いな人」が大嫌いで、応援する主軸に影響が出る場合は中々受け入れるのは難しいのかなと思うので、自分の心と相談する必要があると思います。推し続けるのか、やめるのか、ということを。
2. 受け入れられない部分は置いておく
先ほども少し書いたことですが、「あの発言はいやだった」、「あの行動は受け入れられない」という事態が起きた時、昔の私は目を背けてなかったことのように扱おうとしました。
今の場合は「受け止めて置いておく」というスタンスになりました。ある発言に対して、自分のポリシーと反する、と感じた場合は「あ、そういうところもある人なのね。OK。でもそんなところ、私は好きになれない。」とはっきり自分のNOという感情を受け止めます。
そのあと「こういう発言をした人なんだ。覚えておこ。」とそこら辺に置いておく。存在は認めて置いておくのです。何故ならこれにも「変化の余地」があるから。もしかしたら数年後に「昔はこう思ってたけど、今は変わったんですよね〜!」という発言があったとしたら、私はその時点の推しに対して「変わったんだね、いいね!」と思えばいい。イヤだと思った部分も、変わる可能性は十分にある。まあ、変わらない可能性も十分にありますが(笑)
意外と、人の考えは突然ガラッと変わったりするものです。個人的にも、トラジャはアメリカに行ってかなり価値観変わったんだろうなぁと思う事も増えました。常に「今」にフォーカスして、今の自担が好きかを判断する、そして過去の言動に囚われ過ぎず、頼りすぎない。そうしよう、と努めているところです。
3. 理想像はゆるゆるに
そして、理想像を固めすぎず、ゆるゆるにすることにしました。今の私で言うと多分2つあって、「トラジャがなんでもいいからダンスを踊ってくれること」、「どちらかというとホワホワな基本性格」です。私の中では、この理想像にも「変化する余地」を残しています。私の「好き」の概念もいつ変わるか分からないので、固めすぎない。あくまで「今の私の思うゆるゆる理想」という感じです。理想像をゆるゆるにしとくと、そんなに理想の枠から外れることはなくなって来ます。細かく決めすぎるからズレが生じ易いのかなと思ってるので。ざっくりにしとく。今の所、このゆるゆる理想像からトラジャが外れたことはないです。あくまで個人の感想ですが。
4. 過去に囚われすぎず、「今」を見る
前述の通り、過去の発言や行動を心の拠り所をしてしまうと、後々「発言時点の推し」と「今の推し」とのズレで苦しむ可能性があります。本人の実際の発言ではあるけれど、それを本人が今も継続して思ってるとは限らない。過去の発言を頼りに応援してしまうと、「今の推し」との乖離(時間のズレ、価値観のズレ)が生まれやすく、絶望してしまう可能性が高くなる気がします。「過去は過去、その時点での価値観・考え方でしかない」と肝に銘じています。
具体的に言うと、わかりやすいやつですが、川島如恵留くんはスノストのデビュー発表前は「デビューにこだわらない」というような発言を雑誌でしてましたが、スノストのデビュー発表を経て、「デビューしたい」に180度想いが変わっていました。あくまで例えばですが、デビューしたいと思ってない如恵留くんの発言を拠り所にしていた場合は、変化した時点で大幅な乖離が生まれてしまうと思うんです。だから、常に今の推しが好きかどうかに集中することにしました。
以上が今の私が推す上で意識していることでした。全部完璧にやるのは難しいですが、気持ち的には随分と楽になりましたし、これからもしばらくこのスタンスで応援するんだろうなあと思います。
とはいえ...
応援する「核」は必要
つらつらと理想は固めすぎない方がいいとか語って来たのですが、でも絶対に応援する上で「核(主軸)」って必要だと思っています。応援する「意義」みたいな感じのやつです。私の場合は、さっきの理想像と同じで(というかそれが核で)、「ダンスを踊ってくれること」、「どちらかというとホワホワな基本性格」だと今の所思っています。それって絶対あっていいし、ないってことはないと思います。むしろ、そこが揺るがされるような事が起きた場合は仕方がないと思ってるんです。
確かに、昔の私は色々固めすぎだったし、そこは反省しているのですが、でもそれと同時に「核」が傷ついてしまった経験もあって、結局どうしても納得できなくて、応援を続けられなくなってしまった。でも、それは仕方なくない?と思ったのです。ただの時間軸長めのアンマッチングだと思うし、次の推しを探すか、昔の最高の推しとの思い出で生きていく感じでいいと思ってしまうんです、私は。それは推す側の責任でも、推される側の責任でもないという結論に辿り着きました、私の場合はですが。だって、アイドル側のポリシーと、私のポリシーに大幅な乖離があるということ、もしくはそれまでは乖離がなかったのに自然発生型的に生まれてしまっただけなので。私はそう思えるまで時間がかかってまあまあ引きずった経験がありますが(笑)
「ファンの需要」と「推しが供給したいもの」が一致することは奇跡
先ほど、「ポリシーの乖離」と言わせていただいたのですが、そもそもこれが一致し続けると言うのは奇跡に近いことなのかなと思っています。やっぱり人間って、経験や、関わる人の価値観、成功体験、年齢などで価値観が大幅に変わるものだと思いますし、推しの「これをしたい」が、必ずしもファンが望んでいることではない場合もある。あとはその「推しのやりたいこと」がファンそれぞれが飲み込めるレベルの価値観の乖離かどうか、ということになりますが、供給と需要が一致し続けるってなかなか至難の業だと思います。「飲み込めるレベルの価値観の乖離で、でも欲しいものはちゃんと供給してくれる推し」との出会いはなかなか貴重なもので、奇跡に近いイベントだと個人的には思いました。だから、私の核からズレずにいてくれるトラジャには一方的にとても感謝しています。(あくまでも私の核からズレなかったというだけ)
逆に言うと、供給と需要が一致は奇跡レベルの所業なので、ズレが起きてしまっても、何もおかしくないということだと思います。だからオタクは回っていく。それでいいのだと思います。それと関連してなのですが、私はV6のオタクをしてた時に凄く羨ましいなあと思ったことがあって。その時、既にV6は20周年を迎えたタイミングでしたが、私は彼らとかなり歳の差があり、「まだまだ毎年、バリバリコンサートして欲しい」と思っていたのです。(私の固めすぎポイントですね)
でも、程よいペースでコンサートをしたいと考えているメンバーもいたようで(某雑誌での発言より)そこが物凄い価値観の乖離になっちゃったんですよね。でもある日、デビュー当時から応援していたファンの方が「私も若い時に散々楽しませてもらったから、それくらいの頻度で今はちょうどいい。でもその時期を知らない子は辛いよね。」っておっしゃってたんです。
羨ましいなって、思いました。遅く生まれ、遅くファンになって、年に何本もコンサートをやってた時期を知らない私には、すごくすごく輝いて見えて。だから、一緒に年を重ねて大人になって、一緒に同じ時代を経験をしてたらこんな価値観の乖離生まれなかったのかもって思うとちょっと泣けちゃいました。結局、V6はなんも悪くなくて、私個人との単なる価値観の乖離なんですよね。まあ、私はたまたまそこに乖離を感じただけで、年齢差が全員に影響するとか思ってないです。でも今度は、トラジャと一緒に歳を重ねていけたらいいなあって少し思ってます。
おわりに
今回は私の個人的な整理として、推し方の変化を具現化してみました。あくまで、私の中でのある種の論なので、読んでくださった皆さん全員には当てはまらないと思いますが、「こんな考え方もあるんだな」程度に受け止めていただけると嬉しいです。
これからもトラジャと小さめの乖離と折り合いをつけながら、楽しく、長く、応援できたらいいなあ。
あぷ